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堀川工事と河守神社

更新日:2018年9月30日

河守神社

慶長5年(1600年)、備前の黒田長政が、ここ筑前国に封せられます。長政は領地の生産力を向上させようと入府早々から検地や開墾など様々の政策に着手。領内屈指の穀倉地帯である遠賀平野の農民たちが度重なる川の氾濫によってあえいでいることを知り、肥沃な遠賀平野を守るため、遠賀川の築堤工事を決意します。

築堤工事だけでもたいへんな大事業でしたが、より高度な治水と物流の効率化を図るために堀川運河の開さくも行うものとし、工事は元和7年(1621年)築堤工事と併行するかたちで開始されました。ところが2年後の秋、長政は急死。運河開さく工事も中止されてしまいます。再開されたのは実にその128年後、宝暦元年(1751年)のことでした。再開したのは享保年間の大飢饉で窮地に立たされていた6代藩主継高。工事を任された郡総司櫛橋又之進は一帯を踏破し、慎重な掘り試しを行うなど綿密な計画を立ててこれに臨みます。

工事は予定通り困難を極めました。中でも難所だったのは堅牢な吉田村車返の岩盤切貫工事と、中間村取水口の石唐戸でした。しかし、現場で直接指揮をした一田久作らの懸命な働きにより、12年後の宝暦12年(1762年)、ついに開通します。

以後、堀川は優れた治水施設としておおいに役立ち、新田開発の灌漑用水としてもその力を発揮し、また、若松へ年貢米や石炭を運送する運河としても利用され、昭和の初期にいたるまで北部九州一帯の経済基盤を支えました。

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