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広報みずまき2020年9月10日号(特集)

更新日:2021年2月11日

あなたはいくつ知ってる?町の歴史遺産

まちには貴重な歴史遺産がありますが、看板や説明がないものが多く内容が知りたいという意見が多数ありました。そのため、平成30年から2年かけて主な史跡など14カ所に看板を新設・改修し、皆さんに親しんでもらえるよう詳しく、分かりやすくリニューアルしました。

看板にあるQRコードに説明が載っていますので、歴史遺産を巡るときに読み取ってみてください。

歴史遺産マップ

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兜巾塚(猪熊)

兜巾塚には2つの言い伝えがあり、1つは壇ノ浦の合戦の時、山鹿秀遠の援軍として英彦山から来た山伏が兜巾(山伏が額につける尖頭円型の頭巾)をこの岩の上に置いて近くの十三塚へ登って自害したという悲しい話。もう1つはこの岩が川の中にあったころ、兜巾の形をした巨大な岩の頭が水面から突き出していたことから、船頭たちが兜巾塚と名を付けて航行の注意を促したという言い伝えがあります。

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報恩寺の宝篋印塔(古賀)

宝篋印塔は、鎌倉時代から江戸時代までの間に造られ、「墓標」や、「供養塔」として用いられました。報恩寺の入り口にあるこの宝篋印塔には、江戸時代末期の天保3年(1832年)との銘があり、形が簡略化した衰退期のものと考えられます。

この宝篋印塔がある報恩寺自体は、非常に歴史が古く、地理的に以前の場所から移されたとありますが、はっきりとした移設の年代は分かっていません。

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古賀城跡(古賀)

曲川に面する豊前坊山にある16世紀の山城跡。麻生文書には天正14年(1586年)、豊臣秀吉方の麻生家氏が、対立する島津方の古賀城・浅川城・剣岳城を落城させたことを豊臣秀吉が褒めたたえたと記されています。

山頂には物見やぐら、周辺は武家屋敷があったと推定されています。山頂の南斜面には城の石垣の一部を見ることができます。

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    古賀城想像図(柴田貞志画)

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    石垣の一部

旧日本炭礦配水タンク跡(古賀)

昭和19年以降に日本炭礦第2礦のえぶり社宅(現緑ケ丘)と宮ノ下社宅(現総合運動公園)への簡易水道の給水用に作られた直径16メートル高さ4メートルのコンクリート製タンク。多賀山遊歩道に現在もほぼ当時のままの姿を見ることができます。

炭鉱が閉山し、翌年から町の上水道から分水を受けるようになったことで、タンクの役目を終え、廃止されたと考えられています。

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    日本炭礦「追憶」より

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    現存するタンク跡

大山祇神社跡(古賀)

この周辺には日本炭礦第2礦という炭鉱がありました。昭和11年、守護神として山の神の本社、愛媛県の大山祇神社から神様を分けてもらい多賀山に移し祭りました。昭和46年の炭鉱閉山に伴い、神様は本社に返され、社殿も取り壊されました。

その後、平成17年にこの一帯は多賀山自然公園として整備され、町民憩いの場となっています。

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    昭和30年

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    現在

石造宝篋印塔(古賀)

宝篋印塔とは「墓標」や、「供養塔」などに使われる仏塔の一種で鎌倉時代から江戸時代に造られました。歴史的背景の記録は残っていませんが、1号は全体的に丁寧でバランスのよい造りで、南北朝時代(14世紀)の特徴を残しています。保存状態もよいため価値の高いものです。

一方、2号は宝篋印塔が衰退する17世紀のものと考えられます。この宝篋印塔は吉田地区にあったものを町が譲り受け、現在地に移転したものです。

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頃末小学校校舎下の地層(頃末北)

崖の下aの地層は大辻層群遠賀層と呼ばれる、およそ3,500万年前のものです。太古の植物の化石が残っていて、薄い石炭層がところどころにあり大森林が広がっていたことを示しています。その後気候の変化で木々が倒れ、泥や砂が一緒に積み重なり、長い時間をかけて石炭となりました。上のbの地層は芦屋層群と呼ばれるおよそ3,000万年前のものです。黄色っぽい砂が固まってできていて、エビやカニなどの甲殻類、貝の仲間が住んでいたところが化石となったものです。このことは、当時この辺りが海だったことを示しています。それ以後の地形の変動で盛り上がって陸地になり、島国日本が誕生しました。

地層の境目は、日本が大陸から離れていったことの証拠となる貴重なものです。当時の生態系や地球環境を観察することができ日本列島の成り立ちを考えるうえで重要です。

小学校の校舎下にあるため近くで見ることはできませんが、フェンス越しに確認することができます。


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炭鑛殉職者の碑(中央)

この石碑は昭和49年建立されました。日本炭礦で殉職した人たちを追悼するものです。裏面には追悼の言葉が刻まれています。

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    石碑の裏面

内往還跡(吉田東)

江戸時代に参勤交代で殿様が通ったという殿様道。福岡藩が別荘があった上底井野村→下大隈村→中間村→岩瀬村→吉田村→則松村→陣原村→熊手村へと通じ黒崎へ出る裏道となっていました。この周辺は峠となっていて、道路の角には傘を作る家があったことから、傘屋の辻(十字路)といわれていたそうです。サヤノカミという道祖神まで100メートルほどの殿様道が現在も残っています。

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    サヤノカミ

車返切貫(吉田東)

宝暦12年(1762年)に開通した遠賀川と洞海湾をつなぐ人工運河の堀川。当初は治水対策の運河として造られましたが、開通後は周辺の田畑の水を潤したほか、明治期には筑豊炭田から採掘した石炭や年貢米などの物資の輸送路としても活躍しました。最盛期には年間13万艘もの輸送船が運航していたといわれています。

全長11・8キロメートルは江戸時代の運河の中では、第2位の長さを誇ります。また、車返切貫の全長456メートルは、江戸時代の切通し区間をもつ運河の中では日本一長いものです。崖面に残る工具痕からは、矢(くさび)やツルハシのような道具を使い石材を切り出していたことが分かっています。切り立った崖はその美しさから当時、屏風を立てたような風景とも表現され、観光地にもなっていたそうです。

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    切貫技法の痕跡

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    掘削工事の工具跡

八所神社古墳(二西)

江戸時代の記録に正徳4年(1714年)、神社拡張のため山を削っている時に石室が見つかり、中から鎧・甲・剣・鈴が出土したと記されています。このことから、古墳があったことが分かりました。そのうち現存する四環鈴は神宝として保存しています。通常、鈴の数は3つが多く、4つのものは今のところ全国で3例しかありません。古墳に葬られた人は、この地域を支配した武人的な性格をもつ支配者だと考えられます。境内には古墳の石材の一部と思われる石が保管されています。

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    古墳の石材と思われる石

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    四環鈴

上二貝塚(二西)

弥生から鎌倉時代の集落の跡。現在は宅地になっていますが、平成9年の宅地造成工事のときに発掘調査が行われ、井戸やシジミ貝を捨てた穴や建物の柱穴などが多数見つかりました。出土品には弥生土器・陶磁器、古銭、獣骨などがあります。一番古い出土品は弥生時代後期の小形ぼう製鏡(町指定有形文化財)で、集落内での祭りごとに使われたと考えられています。この発見で、15世紀の文献に出てくる「二村」より前から人々がこの地で生活していたことが分かりました。

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    小形ぼう製鏡

蔵富吉右衛門顕彰碑(立屋敷)

立屋敷村の蔵富吉右衛門は、寛文10年(1670年)77歳の時に稲の害虫であるウンカを鯨油で駆除する方法を発見しました。その効果が認められたのは発見から約60年後のウンカの大量発生で100万人近くの餓死者が出たといわれる享保の大飢饉がきっかけでした。その年に福岡藩がこの駆除方法をお告げとして広め、中国地方、四国地方まで広く伝わりました。その後も200年以上この方法が用いられました。これは農業技術史上画期的な発見と言われています。写真の墓標裏面に顕彰文があります。

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旧水巻村役場門柱(立屋敷)

明治22年、水巻村は9つの村が合併してできた村で当時の人口は3,061人でした。村役場は、交通の便がよい村の中心に位置し、立屋敷の八劔神社の隣接地に建てられました。跡地には当時の門柱が残っています。その後、石炭産業が盛んになり、三好鉱業が頃末に進出すると、頃末が村の中心となっていき、昭和8年に村役場も頃末に移転。昭和15年には人口が2万人を超え、水巻町となりました。

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他にもたくさん まちの歴史遺産

ここでは14カ所の歴史遺産を紹介しましたが、皆さんはいくつ知っていましたか。その他、紹介しきれなかった歴史遺産がまちにはまだまだたくさんあります。町ホームページでも紹介していますので、チェックしてみてください。皆さんの知らないまちの歴史が見えてくるかもしれません

  • 問い合わせ 歴史資料館 電話093-201-0999

このページの担当部署

企画課 広報係
電話番号:(代表)093-201-4321