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町名由来・町のなりたち

更新日:2021年2月3日

水巻町の航空写真 神社・オブジェ 銀杏の木

町名由来

立屋敷の八劔神社に合祀されている保食(うけもち)神社の棟札(むなふだ)に、「保食宮は昔、水巻宮(みまきぐう)と称す。水巻(みまき)は、地名にして水の巻く意なり」と記されています。

明治22年(1889年)の町村制施行のとき、水巻山(みまきやま)にあった戸長役場を村役場に改称して、役場の所在地の名をとって村名にしたのが水巻村(みずまきむら)です。その後、昭和15年(1940年)に町制を施行し、水巻町(みずまきまち)となりました。

町のなりたち

遠賀平野は遠賀川の上流から運ばれた土砂と、響灘から吹きつける風により形成されたものであり、各地に縄文・弥生時代の遺跡が分布しています。遠賀川の中州に広がる立屋敷遺跡は、昭和6年(1931年)に発見された弥生時代の集落跡で、これまでに土器や農具・住居跡がみつかっています。特に弥生時代前期の遠賀川式土器は稲作文化と関係が深いことで知られています。

奈良時代になると、京と大宰府をつなぐ西海道の島門駅(芦屋町浜口から遠賀町島津付近)と夜久駅(八幡西区上津役付近)の間にあり、遠賀川の渡し口でもあった立屋敷地区は、当時から交通の要衝となっていたとの説もあります。

平安時代末の源平合戦では遠賀川河口一帯を支配し平家方の山鹿水軍を率いた山鹿兵藤次秀遠(やまがひょうとうじひでとお)がいましたが、平家の敗戦とともに滅亡しました。その後は鎌倉から戦国時代にかけて麻生氏が支配します。

「麻生文書」にはその所領のうち、水巻関係の地名として「二村村」「古加名」「是末名」が記されています。 一方、室町幕府の御料所(直轄地)であった広渡(遠賀町広渡)周辺にもあたり、足利尊氏が西下の際、えぶりにあった西光寺に泊まったという言い伝えもあります。豊臣政権以降は、幾度かの検地によって水田が開発され、耕地が広がり今日の村落を形成するようになりました。

江戸時代に入ってからは、元和6年(1620年)黒田長政が水巻大明神(みまきだいみょうじん)に参拝したことが「岡郡宗社志(おかのこおりそうしゃし)」に記されています。その後、宝暦12年(1762年)堀川の開通により、豊富な用水の恩恵を受け、稲作を中心とした純農村地域となりました。

明治に入り、石炭鉱脈の発掘と国の富国強兵策の下で、石炭産業で栄え、明治22年(1889年)の町村制施行に際し、立屋敷・伊左座・二・下二・吉田・頃末・えぶり・古賀・猪熊の9か村が合併して水巻村(みずまきむら)になり、石炭産業隆盛とともに人口も急増、昭和15年(1940年)に町制を施行し「水巻町(みずまきまち)」が誕生しました。

しかし、昭和30年(1955年)から始まるエネルギーの転換により、昭和46年(1971年)石炭産業の終えんを迎え、町勢は一時衰退しましたが、炭鉱跡地の再開発と合わせて、積極的に住宅政策を進め、北九州都市圏内のベッドタウンとして発展をみています。

注:「えぶり」の地名の正しい漢字は、木偏に八と書きます。

 

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